天文はかせ幕下

天体写真は芸術作品たり得るか

はじめに

星沼会で親しくお付き合いしている丹羽さんは、昨夏に自身の個展を開くなど「天体写真にアート性を見出す」ことをテーマとし活動されています。毎月行っている星沼会のZoom雑談で、このテーマについて議論をしたのがきっかけで、顧問も天体写真と芸術の関係を考えはじめました。

芸術といえる天体写真とはどのようなものなのでしょうか? あるいはそもそも、天体写真は芸術たり得るのでしょうか?

これを考えるためには、まず芸術作品の定義を明確にする必要があります。「そんな簡単に定義できるか」というツッコミは当然あるでしょうが、定義なしでは議論がモヤモヤしますので、次に定義します。

「芸術作品」の定義

Tさんを例に

顧問の職場の同僚であるTさんは、とてもユニークな方です。どうユニークかは本題から外れるので詳述しませんが、顧問が考える一般的な人と比較して、思想も感性も大きく異なっているように感じます。

そんな彼の趣味は絵を描くことです。その絵は他人に見せる目的のものではなく、しかも直線とか円など単純な図形の組み合わせなのだそうです*1。それらをうまく組み合わせることで、ある種の美が具現化できると彼は考えていて、学生の頃から暇を見てもう何十年と取り組んでいるが、全く実現の見通しが立たない。最近は子育ても忙しいので諦めたーーなんてなことを話していました。

またある日、彼は学校のトイレのある窓枠が「美しい」と言います。どうやらその直線のパタンが彼の目指すものに近いらしく、その美を私に訴えるのですが、さっぱり理解できず当惑した記憶があります。

そういったイメージを心に宿している人を初めて身近に目の当たりにしたことは、少なからず驚きでした。これが芸術家のセンスなのかも?と考えるきっかけになりました。

個人的な美と普遍的な美

ここで、Tさんが見ている美を「個人的な美」と呼ぶことにします。それは彼だけの特殊な感性によるものなのか、それとも何十世代何千年にわたる彼の先祖の遺伝子に刻まれた記憶なのか。それを知る由はありません。

ですがTさんに限らず、それぞれの人格の中には、他人と共有しがたく言語化も不可能であるような、そういう個人的な美が大なり小なりきっと存在しているだろうと想像します*2。 

一方で「一面の花畑が美しい」とか「山々の風景が美しい」とか「橋本環奈ちゃんがかわいい」などといったことを「普遍的な美」と呼ぶことにします。それは誰が見ても十中八九美しく感じる、という意味です。あるいは少しカッコよくいえば「人類共通の美」です。もちろん、そのような美が存在するかどうかは決して自明なことではありません。しかし、そこをツッコムと話が長くなるので、ここでは「お花は誰が見ても綺麗だよね」「環奈ちゃん、誰が見てもかわいいよね」ってことで話をすすめます。

芸術作品の定義

上述のTさんがもし、彼の目指す美を具現化できたとしたら、それは正しく芸術作品であると顧問は考えます。

つまり芸術作品とは、表現者が内面に宿している個人的な美が具現化されたもの、であると定義したいです*3

しかし顧問が、Tさんの作品を見ても、理解できる可能性は低いだろうと予想します。一般的に芸術作品は表現者の個人的な美なので、多くの人にとっては理解不能なはずです。しかし、一定の割合で表現者に部分一致した感性を持つ鑑賞者がいて、しかし多くは自身の感性に気づいていないので、表現者の作品が心に響き、立ち止まって考えるのだろうと思います。反対に誤解を恐れずに言えば、ある芸術作品が万人の共感を呼ぶとしたら、それはもう芸術ではないと顧問は考えます。

対して普遍的な美は、これを具現化しても、それが美しいことは誰にとっても同じなので「まあ、きれいだね」という感想にしかならず、そこにはなんの発見も驚きもない。なのでそのような作品は芸術とは言えません。天体遠征の帰りに、素晴らしく美しい朝焼けに出くわして夢中でシャッターを切ったが、現像すると退屈な写真にしかならないのは、まさにこれだと思います。

ちなみに、芸術の対象は美しいものだけではありません。うえの「個人的なXX」「普遍的なXX」のXXに入るのは美だけでなく、憤怒、悲哀、恐怖、歓喜、笑い、神秘、なんでもありです。

天体写真は芸術作品たり得るか

そして本題に入ります。

我々が夜空や星々、宇宙を見て感じるのは「普遍的な美」であると顧問は考えます。星空は、お花畑や山々の風景の写真と似て、誰にとっても美しく感じる対象だと思うからです。よって、夜空の星雲・星団を写真として切り取ったとしても、それは一般的には、芸術作品にはならないと思います。

しかし同じ星を見上げるとき、私が感じる美しさと、彼が感じる美しさは、同じではありません。あるいは、ある人にとってはアンドロメダ銀河が「非常に恐ろしく」あるいは「とても哀しく」感じることもあるかもしれません。そういった天体を眺める個人的な心象風景*4が先にあって、それをもし具現化することができれば、その天体写真は芸術作品たりえるでしょう。

あるいはこのエントリで丹羽さんが書いているように、天体写真をとる人類の技術革新や、営み、思いも、天体写真を芸術たらしめる要素になるかと思います。またはもっと突っ込むと、このエントリで触れられているような、物質レベルで刻まれた人類共通の記憶といったものを表現者が感じていて、それが本当に実在するかどうかは別にして、その記憶のイメージを写真に込めるといった、そういう要素も多分に芸術的であると思います。

おわりに

最後に個人的なことを書いておくと、顧問は詩や小説は嗜みますが、彫刻とか絵画といった非言語的な芸術については感性が全く鈍いと自負しています。二度ほどヨーロッパに出かけた折には、シャガール美術館とか、ゴッホ美術館、フェルメールレンブラント、モネ・マネ・ミネ・ムネなどの絵も見て回りましたが、特に何も感じませんでした。いや、当時はしたり顔で感じようとしたのですけど、今思えば何も感じてませんでした。

さらに現代アートとか建築アートが全般的に嫌いです。少数の本物の中で、中身がない偽物がウヨウヨしているのを感じるからです。たまに休日に早起きしたときは、「日曜美術館」をみて悪態ついたりしています。

そのような先入観があるので、上記の評論もかなり主観的すぎるかもしれません。「芸術作品とは何か」を一方的に定義してしまっている出発点にも、反感を覚える方もいるかもしれません。芸術の解釈はあまりに多種多様で、対象を限定しないことには何かを語るのは難しいからそうしましたが、前提に全く同意できないという意見もアリだと思います。

しかしながら、私自身も、いつか誰の真似でもない。誰も思いつかない斬新な切り口の写真をものにできないかと考えています。そのためには、単に解像度をあげるとか、淡い部分を引き出すといったこと以外に、芸術性も重要なのは間違いないと思っています。

 

*1:おそらく、モンドリアンとかデ・ステイル的ななにかなのだと思いますが、「まあ、近いのだけとちょっと違う」とTさんは話していました。

*2:似たことは、萩原朔太郎が「月に吠える」の序文で述べています。彼は「詩とは何か」という問題に対して恐水病者の例を上げます。恐水病者は「なぜ水が恐ろしいか」には応えることができるかもしれないが、「どういう具合に水が恐ろしいか」という問いを説明することはできないだろう。しかし、もし彼に詩の才能があれば彼は当然詩を書くだろう、といったことを述べています。

*3:ただし、この定義は芸術作品の判定には使えない

*4:以前、大西浩二さんと少し話したとき、大西さんは「私の写真は、私の心象風景です」と話されていました。